さとちんdiary

普通の大学生が見たもの、感じたもの、考えたもの

文系学部に求められるもの『「文学部廃止」の衝撃』を読んで

僕は「文系」に在学する大学生だ。

大学に在学している間は「文系」というレッテルが貼られている。社会に出たときに、それはコンプレックスや選択を制限するように社会にも浸透している。一部の人は、文系は楽な学部、4年間遊べる学部、役に立たない学部とさえいう人もいる。数年前に文系は廃止すべきだというニュースさえも大きく報道された。

しかし、果たしてそうなのだろうか。文系は無駄な学部なのだろうか。文系に求められているもの、文系が創造するものは何だろうか。

僕はこの本に答えを求めた。

 

「文系学部廃止」の衝撃 (集英社新書)

「文系学部廃止」の衝撃 (集英社新書)

 

 

目次

第一章 「文系学部廃止」という衝撃
第二章 文系は、役に立つ
第三章 二一世紀の宮本武蔵
第四章 人生で三回、大学に入る
終章 普遍性・有用性・遊戯性
 

この本を読んで僕が考えたこと

文科省は二〇十五年六月八日の通知において、「文系学部を廃止する」とは言っていません。にもかかわらず、「文系学部廃止」の言説が流布していったのは、通知が出された背景を踏まえることも、理解することもせず、安倍政権批判の一環として報道をエスカレートさせたマスコミの責任が最も大きいと言えるでしょう。

  「文系の廃止」が決定されたのではない。この「文系廃止」という情報は、昨今のマスコミの煽るような報道によって間違った情報が拡散してしまったということだった。マスコミが間違って認識したことが悪いのだろうか、それとも間違って捉えるように文書を発表してしまった責任者が悪いのかについての問題を追及する意味はないだろう。なぜなら、大学が文系と理系という二つの枠組みで捉えられていることが世界的に見れば時代遅れであるからだ。それを伝えている、伝えたメディアはいくらあるのだろうか。誰かを批判・ターゲットにするのではなく、世界に目を向けてもいいのではないだろうか。

 報道するものが一度マスコミの標的になってしまうと、坂を転がる雪だるまのように報道が止まることはない。それがたとえ間違った内容であってもだ。メディアの本当の価値とは何なのだろう。更には自分たちがメディアの言うことを過信してはいけないメディアリテラシーの必要性・重要性も求められているのかもしれない。

 

  • 役に立つこと

概して言えば、「役に立つ」ことには二つの次元があります。一つ目は、目的がすでに設定されていて、その目的を実現するために最も優れた方法を見つけていく目的遂行型です。

  これは主に理系が得意とする「役に立つ」ことである。なぜなら、理系はどうすればよくなるのか(how)という問いかけを深めていくからである。

例えば、車で考えてみる。どうすれば安く提供できるか、どうすれ排気ガスを減らせるのか、どうすれば効率よく走れるのかなどの課題を深く追求する。

 目的遂行型は決められた課題、目的をいかに良く解決する。それらは主に1-3年、長くて5年ほどの短期的な問題である。それがこの本で述べられている1つ目の「役に立つ」である。

 

何が目的か最初はわかっていないのですが、その友人や教師の一言が、向かうべき方向、いわば目的や価値の軸を発見させてくれるのです。このようにして、「役に立つ」ための価値目的自体を創造することを価値創造型と呼んでおきたいと思います。

  もう一つの「役に立つ」とは特に文系が考えることである。それは価値の枠組み、目的を創造することである。

例えば、上と同じ車で表現すると、どうなるか。安さ勝負に持っていかず、性能やデザインを独自のモノにしてみる。更にはガソリン自動車から電気自動車へと向かわせる。もしくは飛べる自動車に向かうかもしれない。

 これは企業の戦う土俵を変え、独自の新たな価値を創造する。この価値創造型は価値がいつ変わるか分からないような5年-10年、長くて100年以上の長期的な考えである。これが2つ目の「役に立つ」である。

 

  • 文系が創造していくものとは?

文系の知は、長い時間的射程を持つことにより、既存の方の転換に対応し、新しい価値を創造していくことができます。これは価値創造的な有用性で、私たちの社会の未来に絶対に必要なものです。

 文系は長い時間的感覚を持ち、新しい価値を創造しなければならない。日本はこの価値創造的に考える力が弱いとも書かれている。出る釘は打たれるように日本では既存のものから外れたものは受け入れられないのかもしれない。しかしながら、それが新しい価値の創造物として社会に必要ならば、はみ出ることも間違いではないのかもしれない。

 

「文系学部廃止」の衝撃 (集英社新書)

「文系学部廃止」の衝撃 (集英社新書)

 

 

感想

この本を読んで、僕は文系の知は簡単に手に入れることが出来ないと感じた。なぜなら文系が創造すべきものは未来、特に長期的にまったく見えない価値に向かって考えを巡らせていくからだ。その予測不可能な未来をどう考えるのか、どう作っていくのかは簡単なことではない。良くも悪くも、そこに文系の未来が詰まっているのかもしれない。

 

さとちん

 

貧乏とは?〜『貧乏物語』を読んで〜

いったい貧乏とは何か?貧乏、それは誰もが貧しく生きることで精一杯な状態。貧困、それは貧しく自分で解決不可能に近い状態という言葉の違いを見たことがある。そして「貧乏」という題名に惹かれこの本を手に取った。 

 

貧乏物語 (岩波文庫 青132-1)

貧乏物語 (岩波文庫 青132-1)

 

 

目次

  • いかに多数の人が貧乏しているか(上編)
  • 何ゆえに多数の人が貧乏しているか(中編)
  • いかにして貧乏を退治しうるべきか(下編)
  • 解題
  • 追記

 

この本を読んで僕が考えたこと 

 一部の経済学者は、いわゆる物質的文明の進歩 ー富の増殖ー のみをもって文明の尺度となすの傾きあれども、余はできうるだけ多数の人が道を聞くに至る事を待ってのみ、真実の意味における文明の進歩と信ずる。

富の増殖、経済が豊かになることだけが文明の尺度ではない。確かにそうだと思う。文明は文化とも同義だと考えられ、その土地での発展があるのだと分かる。ここで述べられている「道」は様々な解釈ができる。これは自分が進んでいく道、つまり自分の目標。もしくは自分が進んでいく道、将来へのステップ。道を聞くということに広げれば、全員が繋がりあっているということなど自分なりの言葉を当てはめられる。この本では「道」の具体的には述べられてはいない。それはただ書いてないだけでなく、それ自体が作者の意図である。

私がぜいたくをもって貧乏の原因であると言うのも、ぜいたくをする者はやがて貧乏になるぞという意味ではなくて、富裕な人々がぜいたくをしているということが他の多数の人々をしてその貧乏なる状態を脱することあたわざらしむる原因であるという意味である。

ぜいたくが貧乏を生む。ここでの論理の展開はこの本に任せる。しかしながら、ぜいたくは悪い者ではないとも書かれている。それは人間誰しも甘いものを食べたくなったり、いい車を買ったりするなどご褒美が大事だからだ。ご褒美は悪くない。しかし過度のご褒美は多数の人を貧乏にし、「悪」であると作者は述べている。

 

貧乏物語 (岩波文庫 青132-1)

貧乏物語 (岩波文庫 青132-1)

 

 

感想

 この本は以前読んだ『新しい幸福論』とも内容が少し被っていた。しかし、この本の凄いところは1947年に出版されたところである。戦前、日本がまだ高度経済成長などをしてない時代、更にグローバル化が浸透していない時代に作者はこの考えを生み出したのだ。そしてぜいたくは貧乏を生む、貧乏を退治できるという考えは今までに聞いたことがなかった。この論理を使うと、発展途上国がなぜかうまく発展できない理由は、先進国がぜいたくをしているという解釈をすることができる。この考え面白いかも、少し追求してみよう。

 

さとちん

 

生き方に悩む中で『新しい幸福論』を読んで

人は生きていくためには働かなければならない。それは人間の宿命でもある。しかしながら、いい給料をもらって働いても幸せではない人がいる。それはなぜだろう。その一方、他の人から見れば貧しいと言われる国や人の中には幸せな人がいる。その違いはなんなのだろう。

 

新しい幸福論 (岩波新書)

新しい幸福論 (岩波新書)

 

 

目次

第1章 ますます深刻化する格差社会

第2章 格差を是正することは可能か

第3章 脱成長経済への道

第4章 心豊かで幸せな生活とは

第5章 いま、何をすべきか

おわりにー私が思うこと

 

この本を読んで僕が考えたこと

成長経済を求めると種々の問題が生じることとなり、人間社会の全体にとって、そして日本人にとっても好ましくない点をいくつか述べたが、これを要約すれば、資源資源・環境問題への悪影響、働き過ぎの日本人をますます過重労働に向かわせる、格差社会を助長させかねない、ということになる。

社会全体の求めるものとして「成長経済の中、人は働くことが必然である。」という概念があると思う。その中の成長経済とは何なのだろう。経済は成長することが正しいことなのだろうか。毎年、成長し続けることなんてあり得るのだろうか。幸せな生活をするほうが素晴らしいことなのではないか、それは著者がこの本を書いた最大の理由でもある。

 

私と中島の説からすると、世の中には理想の仕事などなく、すべてが大なり小なり苦痛に満ちており、したがって働くということはつらいことだと理解した方が正しく、人は食べるために働くということはつらいことだと理解したほうが正しく、人は食べるために働くのだと達観したほうが、後に述べるように気が楽になるのである。

 理想の仕事を求めることについての一文。理想の仕事はあるのだろうか。人は少なくとも食事ができれば幸せなのではないだろうか。そこに自分なりの達成感や望みがある。それは高い給料、地位、名誉かもしれない。もしくは家族と会えること、休みが多いことなのかもしれない。それは人によって異なるはずだ。

 

ここで最後に大切なことを述べておこう。それは自分の幸福ばかりを考えるのではなく、他人の幸せのことをも考える余裕を持ちたいということである。自分の幸せを追求すると、他人の幸せを犠牲にすることがありうるので、自分の行動が他人の邪魔にならないように、心配りをすることが重要である。

ぼくがこの本を読んで、一番考えさせられたのはこの一文だ。 自分が幸福であるのは幸福なのだろうか。自分の幸福を願うばかりで相手の幸福を奪っているのではないだろうか。相手の気持ちを考える心の余裕を持つことが大事だ。ある有名人が教育上の一番のゴールは「相手の気持ちを考えられるようになること」とも述べていた。ある程度大人になったのだから、周りの人が気持ちよくなるような心配りができるようになろう。

 

新しい幸福論 (岩波新書)

新しい幸福論 (岩波新書)

 

 

感想

ぼくはこの本を読んで、経済・経済学に関して疑問が膨らんだ。日本は市場経済、資本主義を選んだ。それは多かれ少なかれ所得格差を生むだろう。それを所得税累進課税、再分配政策などを通して是正しようとする日本。大袈裟に言えば、アメリカ寄りの社会の枠組みにヨーロッパ寄りの政策が組み込まれているようにも感じとれた。

学習不足、知識不足でまだまだ確かなことが言えてるわけではない。そして使っている言葉が正しい意味で使われているのかも曖昧だ。この疑問に対して自分なりの回答が見つかれば幸いだ。

 

さとちん

未来に向かって『君たちはどう生きるか』を読んで

お久しぶりのさとちん書評です。
「失われた20年」や「悟り世代」と言われる今の20代。僕はそれを聞いて悲しくなる。なぜ、そう言われないといけないのだろうか。その原因を作ったのは誰であろうか。これから20年、30年いや100年といった未来あるはずの若者がどうして苦しまなければいけないのだろうか。この先、僕たちはどう生きていけばいいのだろうか。僕はこの本で問う。 

 

君たちはどう生きるか (岩波文庫)

君たちはどう生きるか (岩波文庫)

 

 
目次
1へんな経験
2勇ましき友
ニュートンの林檎と粉ミルク
4貧しき友
5ナポレオンと四人の少年
6雪の日の出来事
7石段の思い出
8凱旋
水仙の芽とガンダーラの仏像
10春の朝

 

この本で考えたこと

自分たちの地球が宇宙の中心だという考えにかじりついていた間、人類には宇宙の本当のことがわからなかったと同様に、自分ばかりを中心にして、物事を判断してゆくと、世の中の本当のことも、ついに知ることが出来ないでしまう。大きな真理は、そういう人の眼には、決してうつらないのだ。

自分のことを中心して物事を判断している間は、真理つまり真に正しいことを見ることはできない。まだ僕たち若い人は知らないことばかりだ。だから、自分さえ良ければ、私は…という考えになってしまう。しかし、僕は思う。これは若い人だけができないものなのだろうか。あるシンポジウムで有名なジャーナリストは70歳以上の参加者にこう言った。「あなたたちはもう人生長くない。なぜならあと20-30年で死ぬのだから。自分のことを考えないで娘、息子、孫に良いことしてあげなさい。彼らのことを考えてあげなさい」と。

人間である限り、誤りは誰にだってある。そして、良心がしびれてしまわない以上、過ちを犯したという意識、僕たちに苦しい思いをなめさせずにはいない。しかし、コペル君、お互いに、この苦しい思いの中から、いつも新たな自信を汲みだしてゆこうではないか、
―正しい道に従って歩いて行く力があるから、こんな苦しみもなめるのだと。

僕なりにこれを簡単な言葉で、「人は生きている限り、苦しいこともある。苦しいこともあるけれど、新たな自信でそれを乗り越えていこう。苦しいこともあるから人生なのだ」と捉えた。人生はいつも幸せなわけではない。苦しいことを糧に人生を生きていこう。それは冒頭で言った一種の「悟り」につながるのかもしれない。何も苦しいことのないこの苦しい時代に何を信じて、どんな希望を持って生きていけばいいのだろうか。

主人公であるコペル君はこう考えます。

僕は、すべての人がおたがいによい友だちであるような、そういう世の中が来なければいけないと思います。人類は今まで進歩してきたのですから、きっと今にそういう世の中に行きつくだろうと思います。そして僕は、それに役立つような人間になりたいと思います。

そしてこの本はこう終わりを迎えます。

コペル君は、こういう考えでいきてゆくようになりました。そして長い長いお話も、ひとまず終りです。そこで、最後に、みなさんにおたずねしたいと思います。
君たちはどう生きるか。

 

君たちはどう生きるか (岩波文庫)

君たちはどう生きるか (岩波文庫)

 

 

感想

自分の境遇と重なるのではないか。僕はそう思い、この本を手に取った。ぼくたちはどう生きることができるのだろう。僕はコペル君のような答えはまだ見つかってない。学生のうちにはまだ見つからないとも思っている。だけれども最後まで「悟って」はいけない。これから長い人生、僕なりの生き方を探し、それを持って生きていくこと。それが自分の、更には日本の新しい未来、希望、夢につながっていくのだと思う。僕はこの本を読んで未来を悲観して生きていくのではなく、未来に自信を持って挑むことの心を学んだのかもしれない。

さとちん

 

*さとちんdiaryは、Amazon.co.jpを宣伝しリンクすることによってサイトが紹介料を獲得できる手段を提供することを目的に設定されたアフィリエイト宣伝プログラムである、Amazonアソシエイト・プログラムの参加者です。

 

色んなことを自由に

お久しぶり、さとちんです。

  • 考えの整理

最近はめっきりとブログを更新するのもやめてました。ブログをするのは義務でもありません。しかし、ブログの更新をやめると「アウトプットの場」、自分の考えを吐き出す場所がなくなり、1人苦しんでいる自分もいました。実際友達が少ない僕は、本を共有できる友達も絶対的に少ないので、話せる人があまりいません。これからはきちんと自分の考えを「自由に」再発信していこうと思います。

 

  • 本の読み方の変化

電子書籍から紙の本へ
これまではいくつかの理由から、電子書籍で読書をすることが多かったです。最近は紙で読めるようになりました。そのため電子書籍で配信されていなかった本も手に取れるようになり、読書熱が更に高まっています。
・小説から新書、準古典へ
数ヶ月前はビジネス書や自己啓発本をよく読んでいました。それは短期的な結果を求めていたような気がします。今は岩波文庫をはじめとした準古典をよく読むようになってきました。それについては今後書いていこうかなと考えてます。

 

  • 僕と読書

大学では夏休みも始まり、この5日間で4冊本を読んだと思います。僕はまだまだ甘々な若者で、短期的な考えしかできません。成績や評価されて育てられ、じぶんをそれでしか表すことができません。読書をすることでそんな自分が大きく変われるとは思いません。だけれども、読書によって今まで知らなかった知識が手に入るだけでなく、これまでできなかった心で感じる感受性や知識の横断ができるようになるのもしれません。本は生きていくためのものではなくて、人生を豊かにしていくものである。そう僕は読書について考えています。

順次、本を読んで感じたことを書いていこうと思いまーす。

 

さとちん

『竜馬がゆく』を読んで2

竜馬がゆく』を読んだ。

ここで第5巻から第8巻を読んで感じたこと・考えたことを書いていこうと思う。

 

この本を読み終わって、僕の心に残っている考えは「劣等感」という考えだ。

それは200年続いた江戸時代を終わせることができた一つの要因だと考えている。例えば、江戸時代、幕府や国の抑圧で下流武士、特に土佐藩は何百年も無意識に劣等感を味わってきた。しかしながら、誰もそれに気づくことができなかった。それは生まれたときからその環境の下で生活していると、行動・考えが無意識に影響されるからである。それは黒船が襲来し、幕府の悪い所(外国との対応)が表れ始めたところで、意識的な劣等感へと変わった。

 

そうやって何百年にも積み重なった「劣等感」が下克上(幕府の崩壊)へと進めた。江戸では多くの上流階級の武士が暗殺された。それは下流武士による劣等感や長い間抑えられてきた重圧や感情からの解放である。このように劣等感は「変化を生み出す力」を持っている。

 

僕は、この「劣等感」は日本の成長を促したと考えている。それは少なくとも3回来ている。※1

1つ目は文明開化である。江戸幕府終了後、外国との貿易が本格的に始まったことで、日本は欧米諸国に文明の違いを多く見せられた。つまり差を感じたのである。それに追いつくために、日本はその国々から発展した西洋建築、学問、文化まで多くの西洋文明を日本に取り入れた。その導入は日本の文明の発展を促したのである。

2つ目は1950年から1960年代までの行動経済成長である。「追いつけ・追い越せ」の1960年代の言葉にもそれが表れている。戦後すべてを失った日本は戦争の反省と共に外国と国交を回復した。海外貿易によって、多くの物を輸入し、日本の高度経済成長が生まれた。

 3つ目にバブル経済である。僕はバブルの時代には異なった形で劣等感が存在していたのではないかと考えている。それはほかの人よりいいもの、高いものを持とうとする考えである。それは他人と比較し、自分がどれだけお金があるのかを表そうとしたのではないか。それh不動産だったり、外国車、ダイヤ、骨とう品などが多く取引されたことがそれを表している。

 

 (飛躍しすぎて着地点が分からなくなったので)まとめると、

劣等感は良い変化を生む力なのだと思う。どうすれば追いつけるのか、学べるところはどこか、どうすれば勝てるのかといった改善点を見つけ、人を一歩ずつ成長させる。人だけにとどまらず、社会、経済をも成長させる。劣等感を持ち続けている限り、その探求と成長はなくならないであろう。

過去、現在、将来、生きていく中で、何かしらの劣等感は常に感じるものだ。しかし、それは悪いことではなく、自分を高めてくれる良いものである。それがこの本を読んで考えたことだ。

 

 ※1僕の個人的な考えなので、明らかにあっているとは言えない。しかし、一つの意見として書いている。

 

さとちん

『竜馬がゆく』を読んで

竜馬がゆく』を読んだ。

この本は文庫版では第8巻まである。とても長いために、読みきった後すべてを頭の中で整理することはできない。そのため第4巻までを読んだ中で感じたことをいちど整理していこうと思う。ここで書いたことは第4巻までのことなので、自分が感じたこと・考えたことは変わるであろう。

 

竜馬の活躍した時代は黒船襲来から始まったと言える。それは約250年続いた江戸幕府の終了の時でもある。その時代は国(県)から出ることも許されず、武士の階級制度を破ることもあってはならない。そのなかで竜馬は、全てのルールを破ってまでも、薩長同盟の締結や武士なのに海洋塾の設立などに奮闘する。

僕は竜馬がそこまでして動けた背景は「好奇心(楽しむ心)」と「ほかの人と違うことをした」の2点だと考えている。

 

1)好奇心については人を動かす力になると思う。これがすきだ。面白いという気持ちが行動を駆り立てる。それは単に遊ぶといった楽しみではなく、その裏にはしっかりとした努力と忍耐がある。そこでの努力や忍耐は苦しいものではない。むしろ喜んでするようなものだ。そして、それを納得するレベルに到達するまで努力を欠かさないことが必要となる。

 

2)他の人と違うことをすることは簡単でもあり、難しい。なぜならば、藩が、幕府がという無意識に既成概念にとらわれているからである。現代に合わせて書きなおすと、仲間がしているから、友人がしているからという考えに当てはまらないことである。その考えを貫くためには孤独と戦う力が不可欠となる。なぜならば、反対の意見がたくさんあるからである。しかし、時代を生き残っていくためには戦うべきことである。更に生きていくためには大事な考えの一つだとだと思う。

 

竜馬がゆく』を読んで、この2点が特に頭の中の印象に残ったことである。

これらを通して、歴史小説(準古典)を読んでこれだ!というアイデア、技術、知識は得られない。むしろ得ようとする方がおかしいということが分かる。なぜならば、短期的に役に立つことなど書かれていないからである。むしろ長期的に役にたつ概念を得られた。そのような考え方、信念、理念といったどれにも応用可能性のあるものは深く脳に刻み込まれる。そして、無意識または意識的にこれからの生活に応用されるであろう。

 

さとちん